私は、選挙は公正であるべきで、選挙に悪影響を及ぼす行為はあってはならないと思っています。今回の市長選挙では、A陣営の候補には、某市議会議員と商工会議所の重要な人物と、「ダブル不倫している」という噂が市内のスナックで囁かれていました。
A陣営からB陣営の候補には「隠し子がいる」、私には、「三沢市+西村=ヤクザ」、「ヤクザの息子」との誹謗中傷がありました。
また、小山田前市長からは、私に対し「職員を大声を出してしかり、独断専行による覇気のない職場環境をつくった」との誹謗中傷がありました。B陣営の候補はホームページでA陣営に対し、止めるよう訴えていましたが、私は敢えて反論もしませんでした。B陣営も私の陣営も候補者を誹謗中傷したことはありませんでした。選挙後、いろいろな方から私に対するA陣営のそのような流言飛語、誹謗中傷があったという話を聞きました。
1月20日の東奥日報には、【副市長時代に財政改革を推し進め、小山田市長に代わって批判の矢面に立つこともあったが「独断専行だった」などといった不本意な評価をされた。西村さんは「批判を受けても厳しい決断をする必要があった」と弁明したが、一人歩きした悪いイメージを拭い去れなかった。】との記事が掲載されていました。
選挙は終わりましたが、1月24日時点で私のホームページの視聴回数が45,000件を超えました。何故か毎日少しづつのびているので、この際、間違いはきちんと説明し、自分の父親への誤解を解きたいと思い、ホームページで選挙のエピローグを掲載することにしました。第1回目は父親と叔父について、第2回目は小山田市政を支える為に行った財政健全化の取組みについて、第3回目以降は未定ですが、選挙戦にかかった費用などについて、ホームページ上の反響をふまえ、掲載したいと思っています。
【私の父親について】
父親については、三沢市役所奉職時代のことと、退職後の事しか知りません。子どもの頃は厳格な父親でしたが、大学進学時には体調を気遣ったり、金銭面で心配をかけまいとする優しい面もありました。4人の孫たちにとっては優しいお爺ちゃんでした。平成4年左腎臓に癌が見つかり、左腎臓と尿管を摘出、平成7年1月からは人工透析、12月に右腎臓に癌が再発、肝臓にも転移し、平成8年2月逝去しました。私の生まれる前のことについては、以下の【参考文献:激動の昭和戦史「軍友」(鳴呼我が戦中記)昭和56年4月10日第174版(発行所:軍す友編纂企画部)】から掲載させていただきます。
西村眞三(大正12(1923)年3月3日~平成8(1996)年2月18日)𤏩七等旭日章•海軍上等兵曹
上北郡白石町西村春治の次男に生まれ、昭和12年(1937年)尋常高等小学校を卒業し、青年学校を修了。昭和14年(1939年)6月現役を志願(志願兵の場合は満16歳以上)し横須賀海兵団に入団、6ヶ月に亘る厳しい新兵教育を受けた。昭和15年(1940年)11月巡洋艦「夕張」に勤務、次いで特設砲艦「鮮海丸」(昭和17(1942)年10月7日米潜水艦の雷撃により沈没)に配属され、太平洋戦争に出征しニュープリテン島及びニューギニア付近の海域を転戦、その任務を全うして横須賀に帰還した。
戦局は次第に悪化し昭和18(1943)年日本軍はガダルカナル島を放棄してキスカ島を撤退、同19年サイパン島守備隊が全員玉砕し、比島沖海戦では連合艦隊は壊滅的損害を被った。昭和20(1945)年米軍はルソン島、硫黄島、沖縄本島に上陸、8月6日広島に原子爆弾が落ち、8日ソ連が参戦、翌9日には二発目の原爆が長崎に投下され、日本は遂にポツダム宣言を受諾するに至った。この間、海軍工機学校(昭和17年6月16日入校)の機関科に学び、第58号駆潜特務艇(22歳、海軍一等機関兵曹、電機長)に乗り組み千島列島の松輪島(まつわとう、現在は実行支配:ロシア)に着任、敵の鑑砲射撃で船体を損傷し北海道に戻る途中終戦を迎え、釧路で修理を終え無事大湊基地に帰投した。
進駐した米兵と共に機雷除去の掃海作業に従事、海軍上等兵曹に進級し勲七等青色桐葉章を授与され、昭和21(1949)年1月復員し、昭和23年警視庁警察学校621期、東京警視庁巡査(26歳)、昭和25年(27歳)警察予備隊国警(国家地方警察)小隊長、昭和25年~昭和33(1958)年、三沢基地警備隊(MISAWA AIR BASE CIVILIAN GUARD STATION)小隊長を経て、同33年三沢市役所に奉職。昭和58(1983)年3月退職。
まとめ:私の父は、大日本帝国海軍人 → 東京警視庁巡査 → 警察予備隊 → 三沢基地警備隊 → 三沢市役所奉職と、今回の選挙でA陣営の運動員が広めた「西村候補の父親はヤクザ」という話は、流言飛語だったということをはっきりと申し上げておきます。
そもそも、私を副市長にしたのは小山田前市長であり、副市長にふさわしいかを見極める「身体検査」は終わっているはずです。そうでなければ市長の任命責任が問われると思いますが、なぜ今になってA陣営の運動員からそのような流言飛語が飛びだしたのか残念でなりません。

【叔父(西村春男)について】参考文献:昭和49年11月14日発行「女性自身」
私は叔父について、物心がついてからの記憶しかないので、私の生まれる前の事については知るすべがありません。幸い、昭和49年11月14日発行の「女性自身」の記事がありますので、それを掲載させていただきますが、週刊誌の記事の信憑性については、雑誌にもよると思っています。
彼(西村春男)のところには毎日、数件の相談が持ち込まれる。もめごとの仲裁や就職の依頼など、万事てきぱきとさばくのが「顔役」としての彼の仕事の一つになっている。いまでこそ、「社長」と呼ばれているが、数年前までは、「親分」であった。彼の肩書は、寄居峰兼分家桜井二代目、寄居一家は、東日本最大のテキヤ(縁日や盛り場などで露店や興行を営む露店商や行商人のこと)の集団である。彼はつい先ごろ、第一線から退いたものの、この世界ではいまなお恐れられている存在なのである。
高等小学校を卒業後、北海道の室蘭日鉄陸送部に就職して、相撲部に入ったが、技が荒っぽいのであまり試合に出してもらえず、若さを持て余した彼は、夜、寮を抜け出すと通行人にわざとぶつかってゲンコをふるった。3年たつと、室蘭の街でも彼に刃向かう者はなくなり、1週間、公休をとって札幌へ遠征、警官につかまって札幌中央署に29日間留置された。むろん、会社はクビ。郷里に帰る気はなく、室蘭でウロウロしているうちに終戦となった。この時、17歳。終戦と同時に、街では第三国人(第二次世界大戦後の連合国軍占領下において、日本に在留していた朝鮮人·台湾出身の中国人などを指す差別的な言葉)が暴れ出した。戦時中、日鉄や夕張炭坑で強制労働させられていた彼らは、その怒りをいちどきに爆発させて警察署を占拠、次にその矛先を日鉄の社宅街に向けた。このとき、彼は室蘭警察署に呼ばれた。「丸腰になったわれわれでは手が出せん。君、一つ、頼まれてくれんか」同時に渡されたのが一振りの日本刀。それまで彼は、ケンカに武器を使ったことがなかった。彼は無言でうなずいた。当時、彼の舎弟は11人。手に手に短刀や鉄棒を持った「西村一家」は、オート三輪に乗り込んで、今まさに日鉄社宅に乱入しようとする第三国人の群れへ突っ込んだ。「一家」がオート三輪に戻ると、遠巻きにしていた野次馬たちからバンザイと拍手がわいた。これまで白い目でしか見られなかった「力」が、初めて認められたのである。このとき、彼の「行く道」がはっきりと決まった。
翌年、彼は5年ぶりに帰郷した。日鉄社宅事件後も、夕張からやってきた第三国人グループに殴り込みをかけ、MP(米軍の憲兵)に追われる身となったからだ。郷里の村にも数組のチンピラグループが生まれていたが、帰って二週間目、そのすべてが彼の配下となった。たちまち彼は退屈し、三沢の街へ乗り込んだ。当時、三沢は米軍の基地にきまり、土建会社の飯場があちこちにできて、大勢の労務者が集まっていた。我が物顔でのし歩くその土方グループを、彼は片っ端から潰しにかかった。日増しに舎弟がふえ、間もなく彼は数件のキャバレーやダンスホールの用心棒になった。舎弟たちには、ヤミ屋がPX(アメリカ軍の基地内で飲食物や日用品などを販売する売店)から持ち出す砂糖、チョコレート、石鹸などを大道で売らせた。この年彼は結婚した。だが、所帯を持って間もなく、また第三国人のグループと大きな出入り(ケンカ)を起こし、そのほとぼりがさめるまで、姿を消さなければならなかった。2年後三沢に戻ると、留守中、三沢を縄張りにしようとして花巻から入り込んでいた愚連隊グループとケンカ。三沢のシマが落ち着くと彼は再び旅に出た。前科の執行猶予中に淀橋署に検挙され服役。服役中に妻が産後の肥立ちが悪くて死んだことを知らされた。
再び三沢に戻った彼の次の相手は基地の米兵。タチの悪い黒人兵が酔って暴れ、通行人をいきなりジャックナイフで切る事件が頻発した。なかにはピストルをぶっ放す兵隊もいた。彼も日本刀やピストルをバーのソファの下や裏口に隠しておき、兵隊たちが暴れそうになると、得意の先制攻撃をかけた。かくて、黒人兵にケガ人続出。ついに基地の司令官が通達をだした。「街に出て、ニシムライッカという名を聞いたら、かかわらず引揚よ。」おとなしくなった黒人兵にかわって、今度は白人兵が乱暴をはじめた。西村一家は彼らも容赦しなかった。殺さない程度に日本刀で刺し、ビール瓶で頭を割る。すると黒人兵たちが「ギャングボーイ、ナンバー1のニシムラ」と握手を求め、基地からピストルと機関銃を持ち出してくる者さえいた。「白をもっとやっつけてくれ」と。この「米軍譲渡」の武器が彼の一家をますます戦闘的にさせ、東北、北海道のヤクザたちに、「西村一家とケンカするには大砲を持って行かなきゃ勝てない」と、恐れられた。基地司令官もネをあげて彼と話し合い、「今後、兵隊は三沢の街で絶対に乱暴させない、従って西村一家も、静かに遊ぶ兵隊には手を出さないでくれ」。この対談が米軍機関誌に写真入りで掲載された。28年、彼は三沢町会議員に立候補してトップで当選。だが名誉より、あくまでも「実力」を重んじる彼は1期だけでつとめて辞任する。そして39年「西村産業㈱」を設立、金融業に転身して、組織暴力追放の世論の波からも身をかわした。
もう一つ、【参考文献:「ヤクザ伝」(山平重樹。2000、幻冬舎)】の一部を掲載させていただきます。
終戦直後、米兵による婦女子への暴行事件が後を絶たず、三沢市民は困っていた。西村は義憤に駆られ、処刑されることを覚悟でひとり米兵に殴り込みをかけた。進駐軍は米兵の罪を認めて西村の殴り込みを不問に付した。西村は米兵殴り込み事件以来、米軍とのつながりから米軍の物資を大量に放出するようになり抜群の資金力を獲得する基盤が作られた。西村は米兵殴り込み事件以来カタギ(暴力団や反社会的勢力に関係がない一般人)の人気も高く、ロータリークラブの役員、地元商工会議所役員、市長をはじめとする地元有力関係者との交際、さらに自身も三沢市の市議会議員となっている。
【叔父(西村秋男)について】
私の記憶では、かつては「清月館」という旅館を経営し、その後「㈲西村信用」を設立、金融業に転身していました。その間、昭和35年3月20日~平成19年1月28日まで、12期約47年10ヶ月三沢市議会議員を務め、昭和55年3月29日~昭和59年3月19日まで市議会副議長、昭和59年3月23日~昭和63年3月19日まで4年間市議会議長を務めておりました。
まとめ:私は、終戦直後、米兵による婦女子への暴行事件が後を絶たず、三沢市民が困っていたという話や、叔父(西村春男)に助けられたという話は聞いたことがあります。一方で、三沢市民が叔父に迷惑をかけられたという話は聞いたことがありません。私は決して反社会的勢力(暴力団など)を認めていませんが、叔父がそのような世界に身を置いていたことは事実だったと思っています。今でも沖縄では米兵による女性への性犯罪や、事件、事故が後をたたない状況です。アメリカ軍基地がある中でこういった事件は必然として起こってしまうと言われています。戦後の三沢市のことを知らない、また叔父を見たこともない、A陣営の運動員の広めた「西村候補の父親はヤクザ」という話は、このようなことを知っていての発言だったのか、どのような内容の話だったのか定かではありませんが、「ヤクザの息子」ではなく「私の叔父はヤクザだった」というのは事実です。もう一人の叔父(西村秋男)は長らく三沢市議会議員を務めておりました。